灯山(ひやま)
電線がない時代は計16段で高さ15メートルの灯山を各区で運行していたそうだが、現在では長方形の形で
7段前後で高さ5メートル程度の灯山が多く見られる。一時期、人手不足や資金不足などで4基しか灯山が出ない時期もあったが現在では10基の灯山が運行されており、近いうちに2基ほどさらに増える可能性がある。
また、光源はロウソクと電球で、長方形の灯山はロウソク、岩山タイプの灯山は電球を使っている。
なお、灯山開催日は一部の区を除き苅田駅前に20時ごろ集合し、露店などの出店により年々規模が拡大している。
海水につけた葦を山車
に振り掛ける
鉦を鳴らしながら汐かき
汐かき(しおかき)
各区の氏子総代が宇原神社に参拝し、国家安全、五穀豊穣、人畜平安を祈願する例祭のあと、夕刻より赤い幟や幕などを山車に装着し、幟山としてそれぞれの区の汐かき会場に向かう。
汐かき会場は近隣の河口や海岸で、鉦卸ろし同様に鉦を鳴らしながら葦を海水に浸し、その葦を山車に振りかけ、山車を清める。
その後、代表者は鉦を鳴らしながら葦を持って宇原神社に捧げ、山車は各区に帰順する。
山車が帰順したあと、夕刻から深夜にかけて岩山笠用の飾りを付ける。
連歌奉納祭(れんがほうのうさい)
昔は宮司や氏子総代などが集まって、夜を徹して連歌を読み、神に奉納していたそうだが一時期廃絶していた。
しかし、昭和28年に復活させ現在に至る。
今は、短歌の下の句を歌題として出し、上の句に着ける形式で一般の氏子からも広く募集している。
宇原神社神幸祭の起源は、1442年(室町時代)の神幸。山が出だしたのは1597年(安土桃山時代)。
宇原神社の創建年代は古いが「宇原神宮縁起によれば、嘉吉二(1442)年に始めて神幸が行われ、その後「慶長二(1597)年八月十五日に、行幸式を改めて、放生会と言うようになった。
また慶長二(1597)年は、今まで笠鉾ばかりであった山が、氏子村々より鉾山に変貌した年でもある。
さらに前日十四日鉾山に幟を立てて、太皷・鉦にて瀉中に舁出し汐かきが行われた」とある。
1442年の室町時代中期・・・・・起源(笠鉾)
1597年の安土桃山時代・・・・・笠鉾から鉾山に変化、幟山での汐かきも行われるようになる
1854年の江戸時代後期・・・・・灯山の記述あり (この年にペリーと日米和親条約を締結)
1861年の江戸時代後期・・・・・灯山の記述あり (この年は前年に大老井伊直弼が暗殺される)

笠鉾のイメージ
神幸祭の一連の行事(2008年の場合)
鉦卸ろし・・・・・・ 9月の第3日曜日ごろ
連歌奉納祭・・・ 9月の第4金曜日
灯 山 ・・・・・・ 9月の第4土曜日と第5火曜日
汐かき、例祭 ・・10月の第1土曜日
神幸祭・・・・・・・10月の第1日曜日

宮司の祈祷
宮を三回廻る
御神燈
苅田港で海水に浸した葦



鉦卸ろし(かねおろし)・・・・祭りの始まりを告げる神事
各区の氏子たちが御幣、御神燈、御神酒、葦を持って9月の第3土曜日の22時前後に各区の公民館を出発し、鉦や太鼓を鳴らしながら苅田港や殿川に向かう。
苅田港や殿川では葦を汐(海水)に浸して汐かきを行い、宇原神社に詣でる。
午前0時になると社殿を右廻りに3回廻り、葦を神に捧げ、御神燈、御幣、御神酒を宮司に渡し、祈祷してもらう。
それが終わると鉦や太鼓を叩きながら各区へ帰還する。
※昔は道中が遠距離である雨窪区は取石神社、尾倉区は貴船神社、与原下区は白庭神社、与原上区は塩釜神社という区の神社で鉦卸ろしをしていたが、現在では地区の有志や若者が宇原神社まで詣でている。
与原上区(よばるかみ)
尾倉区(おぐら)
南原区(みなみばる)
濱町区(はままち)
馬場区(ばば)
提・長畑区
(ひさげ・ながばたけ)
上町区(かみまち)
中町区(なかまち)
本町区(ほんまち)
西町区(にしまち)

休憩中の上町区
汐かき終了後、岩山へチェンジ




岩山の後姿
飾り山(港区)
折りを上げた岩山(雨窪区



突き当て
上町区VS濱町区
突き当て
西町区VS上町区
突き当て
上町区VS濱町区
神幸祭について